ヘッセ 『シッダールタ』 高橋健二訳

(ISBN:4102001115)

以前我が家に泊まっていた誰かが置いていったこの本に何気なく手を伸ばした。そして一気に読み終えた。この本は心地よく期待を裏切り続け、そして爽快な読後感をもたらしてくれた。

この物語はブッダが悟りを開くまでの人生を描いたもの。生まれてすぐに七歩歩いて、なんていう、彼を神格化する要素はどこにもない。それでも冒頭、シッダールタは期待通りに神聖にて聡明。それゆえに読者としては退屈。しかし、途中からは思ってもない展開が待っている。
このバラモンは商人になってボロ儲けを始め、債務者に執拗に取り立てをしつつ遊女とヤリまくり、博打と酒に溺れて放蕩の限りを尽くし、果てには遊女を孕ませる。そしてこんな生活に嫌気が差したら逃げ出して、行き着いた川で自殺を考える。パンクロック。町田康の小説かと思った。

自殺することを思いとどまり、以前同じ川にて出会った渡り守(渡し船を漕ぐ人)ヴァズデーヴァのもとで働き始める。人が発しうる全ての声、全ての感覚、全ての感情が「もつれ合い、結びつき、千様にからみ合った」川。ヴァズデーヴァと、手塚治虫の『火の鳥』のコスモゾーンを思わせるようなこの川を師として暮らすなかで、シッダールタは決して言葉にすることのできない悟りにたどり着く。

シッダールタは若い頃から、悟りが決して言語として伝達しえないものであるということを薄々感じていた。そして、ついに悟りを開いたとき、そこに至るまでに思索を続けるなかで、言葉=思想が障壁になって悟りに辿り着けないというパラドックスが生じることにもシッダールタは気づく。覚者ゴーダマを師として悟りを求める旧友ゴーヴィンダはそれに気づかずに悩まされ続ける。シッダールタはそれに潜在的に気づいていたが故に、誰もの教えに耳を傾けず我が道を歩み、波瀾万丈の人生を生きて、ついにそれを了解する。そこが彼の賢さ、そして独自性なのだろう。


シッダールタはゴーヴィンダに言う:

「知識は伝えることができるが、知恵は伝えることができない。」
「ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる . . . 」
「たぶんおん身が平和を見いだすのを妨げているのは、それだ。たぶんことばの多いことだ . . . 解脱も徳も、輪廻も涅槃もたんなることばにすぎないからだ。」


ゴーヴィンダはそれを聞いて思う:

「. . . このシッダールタは奇妙な人だ。正等覚者の純粋な教えは . . . もっと明らかで、もっと清らかで、もっとわかりよい」

このゴーヴィンダの考えは、ロジックとしてひとつの完成を見たカントやウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)の哲学、またはそれを起源とするコンピューターのプログラミング言語等の、隙のない完全な秩序を是とするものに聞こえる。

それに対して、シッダールタの言葉は、デリダが指摘する、言語が持つ絶対的な制限を指し示しているかのようでもあり、意味とは生命の自己内部で創成されるとする(西垣通の解釈による)オートポイエーシス理論的でもある。または、赤瀬川原平が「頭は馬鹿だから考えすぎる」というのに似た感じもする。少なくとも大脳皮質だけに頼らず、松果体の意見も採り入れること、とでも言いますか。


最近、いろんな理由で浅いながらも西洋哲学に触れることが多かった。そして、それの提示する観念には、どうしても消化しきれない違和感を感じることが少なくなかった。対して、シッダールタの体験を通して提示された観念は、自然に受け入れられるものだった。
僕にとってのこの本の最大の魅力は、シッダールタが最初から最後まで神聖聡明な聖者ではなく、一応賢いんだけど海千山千というか、むしろちょっと駄目人間だったりしつつ、最後に心の平安に辿り着くという、ある意味すごくフツーに人間的な感じにある。そして、そういった視点にこそ、フツーの一人の人間に価値をもたらしうる力があると思えたこと。


おまけで書き進むと、物語ではさらに、生死・善悪・聖罪などの二元論を超越した宇宙観が提示される。

「思想でもって考えられ、ことばでもって言われうることは、すべて一面的で半分だ。すべては、全体を欠き、まとまりを欠き、統一を欠いている。」
「. . . 世界は瞬間瞬間に完全なのだ。」

こういう陰陽大極図的なものも、感覚的にすんなり受け入れられてしまう僕は、やっぱり一神教的な考え方に傾倒できなさそうだと思う。


あと、ちょっと面白かったのは、「川は至る所において . . . 同時に存在する」という悟りが、Kurt Vonnegutの"Slaughter house five"のTralafamador星人の持つ能力そっくりだということ。SFを極めたヴォネガットは、時間を超越する悟りを開いたと言うことなのか、それとも単に『シッダールタ』の一読者なのか。